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「滅ぶよ。滅ばぬ文明も。涸れぬ泉もないよ。ただ。」

男は言葉を区切って笑って言った。男が撫でる髑髏がカラカラと音を立てる。

「死者の血も、君の涙も。直ぐに渇くだろうよ。此処はそういう処だから。」




――この砂が、全ての悲しみを吸いとってくれる。







理想郷という言葉は、誰が始めに口にし、誰が始めに創ったのだろうか。
原初の其の場所は、どの様な場所であろうか。やはり美しいのだろうか、この私達の楽園の様に。そう、私達の楽園はとても美しい。美しく、平和で。ゆっくりと時が流れる場所。此処は、雄大であり過酷な母なる海に浮かぶ孤島。照りつける灼熱の太陽、全ての命をまるで雫の様に吸い取ってしまう砂の海原の、只中に在ってそうではない場所。其処に住む生命は皆穏やかで、朗らかで。きらきらと輝く美しい青の水面を囲んで、誰もが思っていた。「此処は楽園。永久に続く理想郷。」誰もがそう信じている。私もそうだった。

――里の全てを知る、七賢に加わるまでは。

無造作に突っ立った髑髏の落ち窪んだ双眸が、月に照らし出される二つの影をじぃと見ている。一つは人の子供程。一つは人の頭程もない小さなそれ。髑髏の背後には、ぽっかりと昏い穴。穴の前、腕だけの骨が焦がれるように天に伸び、その隙間だらけの掌に頭蓋は鎮座していた。里の僅か一部の者と、七人の賢者だけしか入る事を許されぬ場所。そこは「客人の寝所」と呼ばれる場所。常ならば誰も立ち入りはしない、静かに客人達が眠るその場所で、起さぬ為か。招かぬ為か。招かれぬ為か。囁く声は密やかに、密やかに。


「さぁ、お逃げ。私が少しだけ、幻を歪めてあげる。振り返ってはいけないよ、余所見をして幻に囚われてもいけないよ。ただ、前を見て走るんだ。砂丘が見えたら、そこが現し世だからね。振り返らず、お行き。この場所も覚えてはいけないよ、もう二度と戻って来てはいけないよ。――戻れなくなってしまうからね。」


いけないよ。いけないよ。女は何度も幼子に言い聞かせた。ひんやりとした夜の砂漠の風が、頬を撫でていく。薄汚れた幼子の頬を、小さな女の手が撫でた。大きな黒色の瞳が、小さな翅のある女を映す。その瞳は不安気に潤んでいた。女を包み込める程大きい…だがとても小さくて頼り気のない手が、しっかと握った水筒をきゅうと抱き締めた。


「いいかい、その水は少しずつ飲むんだよ。ちょっとばかり、喉が渇いたからって一気に飲んではいけないよ。それはオマエの命を繋ぐものなんだからね。少しずつ、大事に大事に飲むんだ。」


いいかい。そう語りかける女の声に、幼子は神妙に何度も何度も頷いた。引き結んだ口元から一言も言葉を発さないのは、緩めれば泣き出してしまいそうだからなのだろう。ただ黙って、女の言葉に頷いた。女も一つ頷いた。それで良い。今泣き出されては面倒だから。だから泣くんじゃないよ。生きる為なんだから。お泣きでないよ。そう言葉に出さず言い聞かせたのは、――幼子にか。自分にか。


「夜眠る時は、蠍にお気をつけ。」
「食べ物は大事に食べるんだよ。」
「道がわからなくなったら、太陽を追いかけるんだよ。あれが沈むところに街があるからね。」

まるで母親の様に。沢山沢山、言い聞かせた。

「嗚呼、我等が神よ。ラキシュアよ。この哀れな人の仔に、どうかそのお力の一端を…!」


女の小さな腕は、幼子の細首にすらまわす事ができない。抱き締める代わりに、そっと煤けた頬を包み込んで。ティラカを刻み付けた小さな額を、その鼻頭に擦り付けた。淡い光が女を包み、やがてそれは幼子へとうつってゆく。体力を削った体に気だるい疲労がのしかかり、僅かにその身を浮かべる高度が下がった。心配そうにその身を包もうとする小さな掌を、微笑みながら押し返す。大丈夫、私の神が御前を護ってくれるよ。女は優しく笑んで、さあと幼子を促す。


「さあ…お逃
「――童を逃すのカ? レヴェグラ。」


女の声を、低い男の声が遮った。幼子が怯えた声を漏らした。キッと表情を強くして振り返ると、髑髏の虚ろな双眸と目が合う。この髑髏が逃げる生者を逃さないとでも、言うたとでもいうのか。否。女が視線を更に上へとずらすと、月を背負って宙空に浮く男と視線が絡んだ。月とよくにた金色の双眸のその男は、ゆったりとした黒い衣を夜風にたなびかせながら、腕組みをして女と幼子を見下ろしていた。その背には女と同じ様に翅があった。


「…メェケロド。」


気だるく重たい体をぶらさげて、女…レヴェグラは、己と同じくして七賢の一角を担う男の名を口にした。その声音には、歓迎の意は含まれず。むしろ会いたくなかったとばかりに嫌悪感を滲ませていた。男はそれに肩を竦めると一度翅を鳴らして、目線を合わせるように高度を下げた。レヴェグラの青い双眸と金色の双眸がかち合う。レヴェグラは息を呑んだ。庇える大きさでもないのに、幼子を自分の背にまわし、眉根を寄せてまるで威嚇するように男を睨みつけた。…対して目の前の男はというと、金色の双眸を僅かに細めてみせるのみで、レヴェグラにはさっぱり男の考えが読めなかった。七賢に加わって日が浅いレヴェグラが、この男について知っている事といえば里一番の変人で、自分が加わる前までは七賢が末席、そうして齢は僅かにレヴェグラより年上ながらも、まだ百は超えていなかっただろう、という事くらいの、どう考えても今この状況を乗り切る糧にはならない情報と、幼子に力を分け与え弱った分を差し引いたとして、目の前にいる男に挑んだとて勝てるものではないという事。そしてそうすれば、負けても。例え勝ったとしても、レヴェグラはもうこの里で暮らす事もかなわないだろうという事。そしてこのままでは、幼子は逃げられず髑髏の向こうの穴に放り込まれる運命を辿るであろう事も……。


「そのわっぱを逃すカ、レヴェグラ ヨ。…見たとこロ、術もかけていないナ。――掟を破るつもりなのカ。それが何を意味するカ、如何なるカ、解らないオマエでもあるまイ?ヌシも七賢が一角を務める者なのだかラ。」


どう思考しても絶望的な状況の最中、先に口を開いたのは男の方だった。術。掟。七賢。レヴェグラは男の言葉一つ一つに眉根を寄せた。そう、安穏とただ平穏に流され、それを信じ続けた日々から一歩。そう、ただ一歩踏み出して知ってしまった真実。七賢だけが知る仮初の理想郷の実体。レヴェグラが住むオアシスには二重の結界が張ってある。一つは人間からオアシスを護る為の、幻覚結界。そしてもう一つは、内側の住人に信じ込ませた、理想という名の虚構。この二つの先に踏み出して在るのは、命の水をめぐる醜い争いだけ――。カタ、リ…風に吹かれて髑髏の顎が鳴る音に思考から引き戻される。


「まだ子供よ。」
「童だからこソ、頭は弄りやすいだろウ?」
「本気で言っているの?」
「人の子は我等の命の時間のそれとは違ウ。直ぐに成熟シ、奪いにくるゾ。」
「それでも今は、まだ子供よ!」


――レヴェグラの脳裏に焼きついて離れない、女の顔が浮かんだ。

結界の番は七賢が交代して維持する。人間を阻む結界は常に絶やしてはならない。結界が弛めば人とこの里との均衡が崩れてしまうからだ。レヴェグラを含む妖精族は、水さえあればその生命の維持は事足りる。酒も馳走も必要はない。ただ露を飲むだけで生きられる。ただの水だけあればそれでいい。ただの水。だがこの渇いた大地で、それを「ただの」と言う者は誰一人としていない。ここに住む生きとし生ける者には、水が必要なのだ。しかも此処にあるそれはとびきり豊潤だ。知れれば放っておく人間なぞいるまい。貪欲な人間が殺到すれば、たやすくこの地のオアシスは搾取され、涸れ果てるだろう。自分達は、水だけで生を繋げる。ただ貪欲な人間からこの場所だけ。ただこの場所だけを守れば、種は存続される。それが今現在の七賢の判断だった。

――だが、その水に固執する我等の姿は如何か?  貪欲ではないのか。

命の雫を独占し、阻み。排除して。貪欲に他ならないのではないか。…神より幸運の祝福を受け、少ない代価で生きれる身。与える者として生を受けし者にあるまじき、自分達の浅ましさを、レヴェグラは感じていた。その後ろめたさからか、里の隅に行き倒れた母子の姿を。レヴェグラは見捨てる事ができずにいた。側に寄れば、その母親はただ懇願した。助けて。子供を助けて。助けて。何度も何度も、母親は繰り返した。繰り返す内に、母親は事切れた。一滴の水も飲めぬままに。結界を越えて里に辿り着いた者の末路の分岐は少ない。凶暴な者はその場で駆逐され、そうでない者は客人として里に招かれる。そして然る後に、術で洗脳を施されて里から出される。決してこの里の事を口外せぬ様に。ただ時として、強い術であるが為に精神を壊されてしまう者もいた。ほぼ廃人として里を出るか、骸として深い穴に放り込まれるか。二択だ。


「そんな残酷な事はできない…。」
「だが外界は時ニ、更に残酷ダ。均衡が破られる事あらバ、我等は容易に滅びるであろうヨ。」
「だからって、この子達を犠牲にしていい道理なんてないじゃないか。」
「ならバ、問おウ。その童を生かしテ、一族を滅びに導く道理ハ?」
「そんな極端な結論などあるものか!おまえおかしいとは思わないのか、今の我々の姿を!我々は与える者!それがどうだ、何だ!この墓穴は!! …っ騙されている里の者がこれを知ったら……」
「与えたサ、生を繋ぐ為の命たる水モ。選択モ。そうして選択の後に彼らはそこで眠っていル…。この過酷な砂の地で与えられうる最大の譲歩ダ。そうしテ、我等が民がそれを知る必要ハ、無イ。」

「五月蝿い!わからず屋っ、おまえも他の七賢の石頭も…もう沢山! 沢山だ!!」


激情に任せて、レヴェグラは叫んだ。片眉を跳ね上げる男に構わず、レヴェグラは幼子の背を押した。さあ逃げて。早く。と急き立てて。男が攻撃してくる様ならば、甘んじてこの身で受け止めてやろう。与えられぬのならば、せめてこの子供だけでも守ろう。そうレヴェグラは決めていた。正直ゾッとはしなかった。何度も脳裏に自分達を見つめていた髑髏が浮かんでは消えた。掟に逆らった自分も、あの穴に放り込まれるのだろうか。

―――…………。

幾ら警戒してもレヴェグラのその背に、矢も刃も穿たれる事は終ぞ無かった。幼子の背が見えなくなるまで待っても、ただそこに静寂があるだけだった。何のつもりなのか、問いただそうと振り向いたすぐ側に、男の顔があった。近すぎる程、近くに。いつも思っていたが、老け顔だ。他の長老よりも年上なのではないかと思う程に。そんな事を考えつつも、レヴェグラの頭はぐるぐると混乱して。正直、まじまじとこちらの瞳を覗き込む金色の双眸から目を逸らしたかったが、眼力が強くてそらせずにただ息を飲んだ。す、と男の手が掲げられ、指先がレヴェグラの額に刻まれたティラカに突きつけられる。魔力の収縮を感じる。

――嗚呼、殺される。

だが、これ以上自分達の愚行に目を瞑るくらいならば。今ここで死んでしまう方が。魂まで彼等と同じ色に染まってしまうならば神の元に召される方が、どれだけ幸せか。最早抵抗の意も表さず、ただ神妙にその時を待った。男の指先がやけつく様に熱く感じた。このまま頭蓋を打ち抜かれて――。 そんな予想とは裏腹に、いつまでもその瞬間はやって来なかった。指先に感じていた熱はやがて心地良いものに変り、じんわりとレヴェグラの体に浸透していった。先程、幼子に分け与えた力が僅かなり戻っのか体が軽くなる。薄っすらと瞳を開ければ、丁度褐色の指先が離れていくところだった。


「オヌシ モ、染まらぬ者なのだナ。」
「……何の、真似


レヴェグラの言葉を遮って、大欠伸の間抜けな声。思わず、目を丸くする。


「眠ぅなっタ、帰って寝るとするワ。オヌシもさっさと休む事ゾ。」
「……ちょっ…ま、待て!」
「なぁニ? 吾輩、今超眠いのだガ。明日じゃ駄目カ。」


くるりらと踵を返すその姿に、思わず袖を掴んで引き止めれば、先程の威圧感も微塵もないユルい返事が帰ってきた。レヴェグラはますます解せないといった風で、半ば男を睨みつけるように半眼になり。


「私を、処刑しないの?」
「何故。」
「掟をやぶっただろう。」
「掟なんゾ、破る為にあるものヨ。」
「……さっきと、言ってる事が違わないか。」
「…ふム、何と言うカ。――体面? 七賢としてノ。」
「その言葉は不謹慎過ぎやしない。」
「人間を逃したのは不謹慎じゃないのかェ?」
「……ッ。狸親父め。」
「酷い事いうのゥ、オヌシ。まだ吾輩若いんだゾ、ピチピチだゾ。失敬ナ!可愛い顔してきつい奴だナ。」


やはりユルい口調のまま、おどけた仕草をする。どさくさに紛れてとんでもない事をほざく男を、レヴェグラが殴ってやろうかと拳を固めた時。スルリと男の袖が頬を撫でた。バッと頬を押さえて離れようとした時、己の頬が濡れているのにレヴェグラは気づいた。男の袖も濡れている。…いつ、流れたのだろうか。そんな事も気づかぬ程に熱くなってしまっていたのか。そんなレヴェグラに、男はひらりと袖を振れば、


「憂うならば不満ならバ、変えて見せヨ。何の為の七賢カ? 今の法を古き悪習と罵るならバ、オマエが新しい法をつくれば良イ。」
「…それは、私を見逃してくれるという事?」
「さテ、吾輩ふらふらと宵の散歩にでただけだデ? 吾輩の持ち場まで結界の歪みがきておったゾ。」


次はもっと上手くやれよ、という男の言葉にレヴェグラは押し黙る他なかった。対して男はというとにぃまりと金色の双眸を悪戯に歪めた。どうやらかなりの変人だという風評は間違いではなかったらしいと、レヴェグラは男への認識を強めた。もう一度間抜けな欠伸をもらして、「もう帰っていイ?」なぞとのたまう男に、レヴェグラは何となしに今まで誰にも言う事ができなかった不安を問いかけていた。


「ねぇ、私の決断は間違っていただろうか?」
「もし、私の決断が間違っていたとしても、私は今の里の方針が正しいとはとても思えない。」
「ねぇ、もし…今宵、私が生を繋いだあの子が、もし此処に戻ってくるような事があれば。」

「やっぱり、この里は滅ぶのだろうか?」





























滅びの日は、その後緩やかでだけれど私達には短い年月の経過と共にやってきた。
土ぼこりに塗れた黒髪をなびかせて、刃を手に先陣をきって私達のオアシスを奪いに来た、青年の黒い瞳に、いつだったかの幼い子の姿を見たのは錯覚だったのか、確信だったのか。ただ確かな事は一族としての私達は滅び、そこには新しい人間の街がつくられ、その街も最後には涸れて滅んだという事。沢山の仲間が死に、沢山の人間の骸も積み上げられ、残った殆どの仲間は方々に散って。私は只一人ひっそりとそのオアシスに残り…私と私の仲間が暮らし、やがて人間に奪われた理想郷の最後を見届けた。そこには一欠けらの理想も夢も残ってはいなかったけれど、恨み言も悲しみも不思議とわいてはこない。


「私は間違ってもいなかったし、正しくもなかった。ただ間違い無く訪れるものは、貴方の言った通りだったね。」


ただのあの日に、あの人が言った言葉と何とも憂いを帯びた笑みが忘れられず、誰もいないその場所で彼の人の名を呼んだ。


End,

Makerodo+Revegura
破滅の背中を見送った日
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